時間
岩波国語辞典においては「ある時刻と他の時刻との間(の長さ)。時のへだたりの量」、と定義されている。ここでは既に、「時計」の存在を前提にしている。また、物理学的には、ある(変化をともなう)現象を扱うために導入される変数。古典(ニュートン)物理学では、場所や座標系には無関係に、運動法則のみから決定される(しかしながら、相対性理論的には、時間は場所や座標系に対して時間は相対的である)。………フレアマン博士は、「だいたい円周の上を針がグルグル回るだけの機械で真の時間がはかれるものかね。もしそうだとすると、真の時間も実にルーズなものである」と言う。なるほど、時計という存在を前提としない場合、「時間」という言葉を定義することは大変難しい。元々、時間という概念自体がそもそも生物学的に相対的であることは「ゾウの時間、ねずみの時間」(本川達雄著/1995/中公新書)で語られていることではあるが、しかしながら「絶対的な時間」を計ろうとする行為自身が、人類社会の歴史であったこともまた確かである。近代科学における「時間」概念は、ガリレオ・ガリレイの「振り子の等時性」の発見からはじまり、最終的に、「ニュートンの古典力学にのっとった絶対的な物理時間」まで到達するが、その前と後で、私達の持つ時間感覚は全く異なっている。私たちが時計を持つ前、つまり、自然法則による時間計測方法を持つ前に広がっていた原初的な時間感覚は、非常に多様なものである。このあたりの議論に関しては「時間の比較社会学」(真木悠介/1981/岩波書店)が詳しい。そして、一度、物理時間という絶対的な時間を得た後も、私達はより絶対的な時間を求めつづけている。たとえば、1秒の元々の定義は、「1平均太陽日の86400分の1」であった。しかし、その定義はテクノロジーの進歩とともに、「暦表時1900年1月0日12時における地球の公転の平均角速度に基づき算出した1回帰年の31,556,925.9747分の1」へ、そして現在の定義である「地球のジオイド面上のセシウム133の、原子の基底状態の二つの超微細準位間の遷移に対応する放射の9,192,631,770周期の継続時間」という所まで厳密化されることになる。しかし、「少年宇宙シリーズ」においては、テクノロジーが生んだはずの「正確な時間」という概念を、自動人形たちは逆に、持っていない。死を持たない人形たちにとっては、どれだけ正確に測られた時間も、否、時間を計ろうとするその行為自身が無意味なのである。どこまで詳細化されたとしても、「この私」が感じている「今」を過ぎ去る時間感覚は、私達の生の周期と外部の環境を、自意識が感じている所から発生する。時間を持つものと持たないもの。その間に横たわる、時間に対する繊細な「感覚の違い」が、少年宇宙シリーズを貫く一つの大きなテーマなのではないだろうかと思う。(たてにょん)
読み/正式名称/種別/掲載作品
じかん【時間】《少年宇宙シリーズ》
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